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「政治家の本棚」-朝日新聞編集委員 早野 透

やすひさ、青春の思い出を語る G・バタイユも読んだ政策新人類

政治家の本棚 - 51
インタビュー:朝日新聞編集委員 早野 透 Hayano Toru
G・バタイユも読んだ政策新人類


◎----塩崎さんは衆院から参院、そしてこんどの総選挙で衆院に戻ったんですね、小選挙区の候補者調整で。以前、参議院に移ったときには・・・・・・。
塩崎--抵抗しましたよ。朝日新聞の見出しに「私の人生設計に参議院はない」というのがドーンと出て、松岡利勝さんが「おまえ、かっこいいよなあ」とか言って、それ以来親しくなった。(笑)また衆議院に戻ってきたのは、歴史上初めてということでね。

◎----そういう調整はけしからんという議論もありますね。
塩崎--ただ、僕は参議院を経験してよかったんじゃないかと思っているんですよ、ほんとう言うと。衆議院時代、松山市などの自分の選挙区より外に出るなんて絶対しなかった。石鎚山という四国で一番高い霊峰、行ったことなかった。時間がもったいなかった。
全県区の参議院になっていろいろ回って、例えば作物の違いがわかる、南予や東予の人たちとのつながりもできて、選挙でお世話になる。南予の町長さんから物を頼まれたりして、一緒に悩んだりするなんていうこともありました。

◎----生まれ育ちは。
塩崎--大阪で生まれて、ほどなく東京に。公立の小中学校、そして新宿高校。姉が戸山高校に行っていて、成績がめちゃめちゃよかったんです。それで新宿にした、比較されるに決まっていると。この姉がまた激しい読書家で勉強家でね。戸山は革マルと民青が強かった。姉はデモなんかにも行ってました。その姉が「これ読みなさい」というのは、暗めのものが多かったんだな。太宰、芥川。

◎----いずれも自殺したな。
塩崎--そこへいくと新宿高校は明るい。新宿御苑の隣でね。目の前に木賃宿があって、夏なんか窓があいていてスリップ姿のおねえさんが出てきたりする。一泊四百円とかで、わけのわからない人が泊まっているところでね。僕は高校一年から社研ですよ。社会科学研究部。これが中核派なんだ。砂川にデモに行きました。そこに先生もいるんだよね、新宿高校の先生が。

◎----だけど、お父さんは大蔵省の要職じゃありませんでした?
塩崎--主税局長でした。でも、姉は「ケネディはかっこいいけれども、ケネディこそベトナム戦争を始めた」などと僕に家で言うわけですよ。
ただし、僕の原点は小学四年だったかな、おやじが広島に赴任するときについて行って、原爆資料館を見たことにある。母親から空襲で逃げ惑った話を聞き、八月十五日が近くなるとテレビのドキュメンタリーを見て、『きけわだつみのこえ』を隅から隅まで読んだりして。学徒出陣の学生が「天皇陛下」 と言わずに、「お母さん」と言って死んだ場面とかをイメージして、戦争はやっぱりいかんと思ったんですね。

◎----で、社研では。
塩崎--文化祭で、その木賃宿がどういう問題を抱えているか、四谷警察へ行って調べて、模造紙に書いて発表したりね。泊りがけでやって、夜はプールで素っ裸で泳いだり。で、高校二年のときにアメリカへ行ったんですよ。

◎----留学ですか。
塩崎--AFSで。サンフランシスコのすぐ郊外、金門橋を渡ってちょっと行ったところなんだけど、ちょうどベトナム戦争最盛期で、僕は反戦集会に行きましたよ。メーンスピーカーはモハメド・アリ、当時はキャシアス・クンイといっていた。クラスメートの女の子のお兄さんがきのうベトナムで死んだとか、身近に起きるわけですよね。そしてロバート・ケネディ、キング牧師が暗殺された。僕はキングのビデオを持っていますよ。「アイ・ハブ・ア・ドリーム」の名演説がありましたね。
いわゆるヒッピーの最盛期だった。LSDとか大麻とか、学校の駐車場でも取引されるぐらい。パトカーがいつもいるんだもの、学校の駐車場に。飛行機持っているんだよあいつ、とかいう金持ちの息子がキャデラックの後ろで大麻を売っている。アメリカが一番自由なときでもあったかな。カルチニラタンの学生反乱の年ですよ、パリでは。

◎----一九六八年ですね。で、新宿高校に戻ってからは。
塩崎--やっぱり自由なアメリカの教育を見ちゃうと、日本は制服制帽で、授業はいかにもガチガチでしょう。アメリカでは彫金の指輪をつくる授業まであったり、スクールカウンセラーもいた。車いすの女性ですよ、僕の相談に乗ってくれたのは。みんなで語り合う、そういう教育が何で日本にできないんだと思って、生徒会長にいきなり立候補した。十月から三月までの任期だったんだな。その一月に東大安田講堂事件があった。お茶の水あたりに見にいきましたよ。

◎----一九六九年だ、あれは。
塩崎--生徒会の仲間がよくうちに集まって、夜遅くまでギリギリいろんな議論をしましたよ。教育のこと、われわれは何で生きてるのみたいなこともね。宇宙観からしてすごくしっかりした人がいてね、後でわかったことだけど、その人、創価大学に行ったんですけど。
制帽は廃止した。制服は事実上、僕は学校に置きっぱなし。そのときに同じクラスだったのが坂本龍一なんですよ。あいつと僕とさぼりまくっていた。もう一人、馬場という石川さゆりの前のだんなが同じクラスでね。授業に出ないから、超低空飛行で胴体着陸寸前だった。

◎----ただのエリート国際派じゃないな。どんな本を読んでいました。
塩崎--高橋和巳の『憂鬱なる党派』とか、吉本隆明の『共同幻想論』とか。坂本と僕とお互いに刺激し合いながら、いろんなものを小わきに抱えて小難しい顔をして、朝は新宿のピットインというジャズ喫茶で、一、二時間目をそこですごして、たばこを吹かして。三時間目に出て、四時間目には早弁して、五時間目からもういない。

◎----坂本龍一は、もう音楽の才能、花開いていたんですか。
塩崎--うん。僕が持ち帰ったロックの最先端のLPなんか家で聴かせてさ、先生だったよ僕は。実は彼と小・中・高と同じなの。中学のときもブラスバンド部で一緒だった。僕は部長で、彼は、年下で。高校は一年留学したから同じ学年になり、新宿のアートシアターに、まだ駆け出しの蜷川幸雄が演出した『真情あふるる軽薄さ』というのを見にいったりした。わけもわからずにジョルジュ・バタイユとか、たまには中原中也とか。萩原朔太郎にものめり込んでいて。

◎----新宿の風景の中でね。
塩崎--湯川秀樹さんとか梅棹忠夫さんとか、京都学派が『創造』という同人誌を出していた。生徒会副会長がこれにのめり込んでいた。彼は動燃に行って、この間の事故のとき大騒ぎになって死にそうになって国会の廊下を歩いていたけど。(笑)僕もそれを教えてもらって、なかなかいいなと。湯川さんたちの真理追及に刺激されて、僕らも青くさい議論をやっていましたよ。
高校二年は、そういうことで授業、全然行ってないでしょう。東大闘争はもうポシャッちゃったけれども、当時、青山高校が頑張ってバリケードやっていたんですね。新宿高校も、坂本と僕と馬場は三年だったけど、二年生と一緒になって十日ぐらいストをやったかな。基本的には自由な教育を求めてね。

◎----よく東大に行きましたね。
塩崎--一年上にもっと原点から考える人がいて、その人は大学へ行かなかった。僕も、大学へ行って人生何するんだろうか、何もやりたいことないわな、働いてみてやりたいことがわかってから行けばいいかなと思っていた。入試も受けまいと思っていたら、おふくろがどうしても受けてくれと言うから・・・・・・。

◎----お父さんお母さん、心配したわね、やっぱり。
塩崎--高校の先生が親を呼べと言うから、二番目の姉が「親はいません。地元で選挙をやっています」と謝りに行ってくれたりした。落選中だった。で、京都大学を受けたけど、発表を見にもいかなかった。何のことはない、坂本は芸大の作曲にトップで入っているんだよ。ばかやろうと思ったよ。僕は駿台予備校で、ちょうど七〇年安保なんですよ。駿台に一年上の新宿高校の社研の先輩がいて、全共闘ならぬ浪共闘というのがあって、そこに引っ張り込まれて。

◎----さんざんひっかかるんだな。
塩崎--ところが一緒にやっていたのが指名手配されちゃった、内ゲバ殺人で。とてもこういう人たちとは一緒にやっていけないし、目的が違うじゃないかと思って、八月から勉強した。英語ができたのと数学はやっていたから、まあ、何とか助かった。そのかわり勉強しましたよ、めっちゃくちゃ。寝ている以外は歩いていても、飯食っていても。

◎----大学は教養学科アメリカ科。
塩崎--自由に議論しながら勉強していくのにあこがれて。やっぱり何となく自由なアメリカというのが・・・・・・。

◎----心に宿っていた。いまやアメリカ人の日本政治への窓口のかなりの部分を塩崎さんがやっている感じだものね。
塩崎--そうでもないでしょうけど。

◎----大学で本も読みました?
塩崎--大学一、二年はヘーゲルとかカントとか。恐ろしく難しかったけれど。経済はほとんどやったことなかった。

◎----とすると、日銀には何で入っちゃったんです。
塩崎--僕の卒論は「一九三〇年代のアメリカ思潮」。ジョン・デニーイというプラグマティズムの人がいるでしょう。彼が、レオン・トロツキーの弁護をする裁判みたいのをやったんですよ。何でアメリカ人みたいな共産主義嫌いがそうするんだろうかという素朴な疑問から、その辺を古いマイクロフィルムなどで調べた。プラグマティズムの幅というか、何も排除するものじゃないということかなと思ったですけどね。随分わけのわからない論文を書きましたけどね。
日銀に行ったのは、経済もやってないし、おかしな話なんですが、何をやっていいかよくわからなかった。大学院で勉強を続けるかなと思っていたんだけど、一歩下がって生きていくには銀行が楽でいいぞと言ってくれる人が高校の先生でいて。給料がよくて暇だと。
日銀というのは、ほんとうは銀行ではない、政策官庁みたいなものだけれども、ほかの銀行に比べると会った人がよかったから、ここだったらきっとゆとりがあるかなと。ところが、行ってみたら僕の性格は違うということがわかった。むしろもっといろいろ飛び跳ねたり、外を走り回ったりするほうが好きだということがわかって・・・・・・。

◎----自分で自分を誤解していた。
塩崎--そう。僕が入った一九七五年は興人が倒産して、安宅が倒産した年なんです。つまり、経済がめちゃめちゃに悪かった。僕は日銀下関支店に赴任した。永大産業が倒れちゃってその出先工場があったりして、その連鎖倒産防止のために走り回るとか、今、企業が何をしているのか、何をしようとしているのかなど調べたりしているうちに、だんだん経済がおもしろくなっちゃった。

◎----実務家として育っていく。
塩崎--倒産てやっぱり大変だな。あそこは造船もあったし、僕の担当している会社が倒れちゃった。大丈夫かと支店長に言われて、大丈夫ですと言って十日ぐらい後に、いきなり会社更生法申請とか言われて。経済の安定は絶対大事だなとよくわかって。そうこうしているうちに東京へ帰って、今度はIMFの仕事とか、国際機関、G5と言っていた極秘裏にやっていたもののバックアップをやるうちに、世界経済のことも考えるようになって、日銀五年してハーバードのケネディスクールにいったわけです。緒方貞子さんのご主人が僕の上司だった外国局長。「あんたも政治に行くんだろうからハーバードの人脈がいいだろう」と。

◎----ようやく政策新人類の塩崎さんにつながるところにたどり着いた。
塩崎--レーガン大統領が初当選のころで、アメリカ経済はどん底、日本は有頂天。天谷直弘さんがアメリカに来て引っ張りだこだった。僕もエズラ・ポーゲルとロバート・フィシュの授業があって、そこで通産省の産業政策について講義をしろと言われて、やったことあるよ。今、恥ずかしくてできないね。こういう産業政策をやったらこういうふうによくなるということだったから。

◎----日米はみるみる逆転した。
塩崎--ハーバードで勉強したのは、経済学とアカウンティング、財政学。アメリカの財政学ってすごくプラグマティックで、こういう場合にあなたはどいういう申告納税をしますかというあたりから始まる。ボストンの地下鉄で料金値上げでもめたことがあって、何かおもしろい歌になっていたんですよ。カッコいい経済学の先生がギターを持ってきて、それをみんなでまず歌って、それから値上げは正しかったか正しくなかったかとか、そういう話ですよ。安全保障では例えば核戦略、核戦術の授業なんてあるんですよ。核弾頭の技術的なものとか戦略論とかの勉強をしました。

◎----いかにもアメリカ的な、現代社会へのチャレンジだな。それで政治の場にはどのように。
塩崎--おやじが経企庁長官になったので、その秘書官になっちゃった、日銀を一回やめて。医務室からレントゲンの写真まで返してくれた。退職金もくれた。それから一度日銀に再就職したけれども、やっぱり政治に出ようと思って、それから七年間、僕は地元にいた。友達づくり、人脈づくりになりました。

◎----漱石の町で俳句の町。松山はいい町ですね。
塩崎--選挙がなければね。すごく難しいですよ。今回だって、こういうふうに戻るなんて、ほんと大変だった。

◎----塩崎さんのりりしいはちまき姿がテレビに映っていたけれども。
塩崎--ほんと?はちまきには「信頼と夢」と書いてあるんです。

◎----民主党がダ-ッと都市部で勝って、石原伸晃さんや塩崎さんの「自民党の明日を創る会」の結成になる。
塩崎--しかし僕、いかにも左翼っぽい話ばかりしちゃったな。少し削ってくださいよ。

◎----いや思い切っていきましょう。


◎対談後記◎
大蔵官僚出身の自民党代議士を父に持ち、本人は東大、日銀、留学とくれば、だれしも二世のエリート国際派そのものと思うだろう。だが、そんな塩崎恭久氏の内側からあふれ出るものは、六〇年代の新宿の風景であり、ベトナム反戦であり、「反理性」のG・バタイユである。あの危機的な金融国会で、切れ味のいい政策新人類としてデビューした氏のなかに自民党再生のカギはある。(早野)

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