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文芸春秋「日本の論点2001」

二世批判に異議あり――― 実力こそ第一。
問題は現職優先の「参入障壁」にあり

文芸春秋「日本の論点2001」

退陣を求められる実力なき政治家

「猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちたらタダの人」――今でも時々聞くこの言葉に込められた発想こそ、日本の戦後政治をダメにしてきたと思う。その表現には、戦後日本社会における政治の位置付けやその役割、あるいは選挙のためには何でもやる、というこれまでの政治風土が凝縮されているのではないだろうか。そこには、いつのまにか「政治家であり続けること」が目的と化してしまった戦後日本政治の悲哀すら私には感じられる。

今日、時代の要請によるふたつの大きな要因で、安易な世襲議員を含む「実力」なき政治家たちは次々に退陣を求められている。

第一に、政治家の役割が劇的な変化を遂げた。これまで「永田町の暗闘」とか「40日抗争」とか、政治記者や政治評論家と称する人々が面白おかしく綴る政治ドラマが大衆小説よろしく世にもてはやされ、その一方で政治の本来の大切な役割であるはずの国家の進路決定は、「選挙」の洗礼を受けることもない霞ヶ関の役人任せであった期間が恐ろしく長かった。

すなわち「政策決定は役人の仕事で、政治家の仕事は選挙と権力闘争」でありがちだった。このような戦後政治風土の中だからこそ、これまで長い間政治における「国民不在の安易な世襲」や「議席の私物化」と批判されるような事例が起こり続けてきたのだ。しかし時代は変わった。

いまの日本は「経済成長、生活水準の向上」という、戦後日本の一貫したゴールを達成した後の新たな国家目標が定まらず、人々の考え方はバラバラであり、政治家がいまこそ国の進路を指し示さねばならない。また、国・地方の借金が合計で約650兆円にものぼるいま、政治家はなけなしの税金の使い道を決めざるを得ない重い責任を負わされている。

こうした厳しい状況下、今日の政治家には国民に代わって責任をもって国家や国民生活の望ましい進路を決定するだけの「未来への洞察力」と「具体的政策立案能力」がいままで以上に求められるのであり、この要件を満たさない政治家は、二世であるか否かに関わらず、やがて淘汰されていくことになろう。

政治家の「気概」とは「公共の福祉」への奉仕

第二の理由は、人々の政治家に対する意識が急速に変わってきていることである。かつて政治家がもっぱら「選挙と永田町の権力抗争」を生業としていた頃には、「政治家であることを目的にする政治家」が社会的にも受け入れられる余地があり、世間がそうした特異な役割や才能を特定の家系に見出してきた向きもたしかにあった。

しかし、いまや国民の意識はまったく違う。政治家の仕事は、あくまでも人様のために働き奉仕する、いわばボランティア的活動であって、決して政治家個人やその家系の名誉のためであってはならない、と皆思っている。イギリスでは国会議員の多くは別に仕事を持ち、委員会は平日の夜、仕事が終わってから開かれることもしばしばだという。日本でも今後このように「公共の福祉」のために奉仕する「気概」をもった本物の政治家だけが求められていくだろう。

高校の時に1年間アメリカ留学をした際、あるホームステイ先で一人の「気概」ある本物の政治家に出会った。そこの「お父さん」はその前年のユタ州知事選挙に出て落選したという。それでもその「お父さん」はこじんまりしたマンションに住みながら、すこぶる元気に会社経営もしているし、何よりも地域での奉仕活動を一生懸命やっていた。
「ああそうか。政治家になろうとする原動力は、社会のために尽くそうという思いなんだ」と悟ったことを昨日のように思い出す。ちょうどその数日前、初めて参議院全国区に立候補した私の父は、次点で落選しており、二人の「お父さん」がダブって見えた。

つまり私がいいたいのは、時代の要請に応えられるだけの「実力」と「気概」さえ持っていれば、二世であろうが三世であろうが世の中に受け入れられるはずだ、ということである。ちょうど、貴乃花が二世だから横綱になるのはおかしい、とか、ハンマー投げの室伏が親子2代にわたってオリンピックに出るのはおかしい、と言う人がいないのと同じことで、中身が「ほんもの」ならばそれこそ何世でもよいはずだ。

二世か否かは関係ない実力勝負の仕組み

そして、だからこそ新しい時代の政治家としてふさわしい「実力」と「気概」を持った人物を、世襲か否かに関係なく正しく選ぶ仕組みや制度が整っているかどうかが重要となってくる。仮にも「実力はあるが二世でない」候補が「二世だが実力がない」候補に負けるような社会であってはならない。そのために私はかねてから公認獲得において「予備選挙」を自民党内でも実施すべきであると主張してきた。

小選挙区制度を実施しているアメリカ、イギリスいずれも各党で予備選挙が行われ、無名の新人も名の通った二世、三世現職議員も皆毎回ゼロからのスタートで各党の公認争いを行っており、実力があれば勝てる仕組みだ。

もちろん日本の場合、誰が公認を決めるかが難しく、党内予備選挙のあり方については慎重な検討を要するところであるが、困難を前に躊躇するよりは、いろいろ実行して改良していったほうがよいと思う。

数年前、英国の女性厚生大臣と話す機会があり、予備選挙の厳しさと、その制度が担保しようとしているイギリスの政党政治における民主主義のかたちを知ることになった。予備選挙で最初に手を上げる人は、何と「多いところで一小選挙区100人近い」というのである。「まずは書類選考。その後演説や討論会をさせて絞り込み、最後に残った数人から投票によって一人を選ぶ」とのことだった。現職の再選率が高いといっても、それは結果の話で、あくまでも現職も新人も皆「毎回ゼロからのスタート」をするのだ。政治家にも選挙のたびに「賞味期限」が試される仕組みが予備選挙なのである。

人材が他党に流れる自民の現職優先

今回「自民党の明日を創る会」の提言の中で予備選挙導入を強く主張した私だが、その背景には、さきの総選挙で、一昔前であれば自民党から立候補していたであろう若き人材がかなり他党に流れてしまった事実があった。企業も政党も最後はヒト。国家もヒトだ。「自民党から出馬できないからやむなく・・・」との声が多く聞かれたが、たしかに自民党は歴史があるだけにどの選挙区にも現職がいることが多い。結局どんなに若くて優秀であっても「現職優先」という「参入障壁」に阻まれて立候補できず、いつまでも新陳代謝が行われない。予備選挙がなければ、有権者に受け入れられない候補者を公認してしまうという「あやまち」を回避することはできず、そのツケは有権者が払うことになってしまうのだ。

世襲議員は親を見て政治家の生活をよく知っており、選挙でも苦労しない、といわれるがとんでもない話だ。親の苦労を身近に見ているだけに、その恐ろしいまでの苦労に飛び込むことに私自身、躊躇したし、ましてや一回だけの人生をたまたま私と一緒に過ごすことになった妻や子供たちにとっては「思わぬ事故」に遭遇するようなものだ。

私が初めて政治家を志してサラリーマンを辞める時には本当に悩んだ。辞職直後、家族に対する申し訳ない思いを胸に、皆で京都に旅をしたときの重たい気持ちは今も忘れられない。しかし、そうした家族の犠牲があっても、なお日本の将来のために自分の全てを賭けてみようと思ったのだった。だからいつの日かわたしが政治の世界から身を引くときが来たとしても、新しい道を模索しながら、かつて転身を決意した際に心に抱いたものと同じ社会への熱い思いは、変わらず私を突き動かしつづけるに違いない。

世襲制を批判するのはたやすい。しかし、若い頃から政治的な環境のなかで広い視野と社会への関心とを培ってきた経験は決して無駄ではないはずである。それを活かせるかどうかは、ひとえに本人の実力と気概にかかっている。いま、問われているのは、二世か否かではなく、時代の大きな転換期にこの国の行方を担おうとする政治家一人一人の生きる構えではないだろうか。社会への熱い思いを抱きつづける政治家が育っていく限り、この国の将来は明るいはずだ。