2012/06/12
やすひさの瓦版(第92号)

民主党の「政治主導」が迷走し、国民の失望は日に日に高まっています。そもそも「政治主導」とは、これまでの官僚依存、政官癒着を断ち切るとの名目で提唱されていたものですが、いつの間にか、原発再稼働に際しての「総理が原発の安全性を政治判断する」といった、独善・専横の元凶にも変化してきています。
「総理が全てを決める」の恐怖が国民の眼前に迫ったのが、3.11の原発事故の対応でした。当時の菅総理は官邸から直接指示を発し、原発からの排気(ベント)を遅らせたばかりか、原子炉の冷却のための海水注入についても遅らせたと問題視されています。現場の所長の判断で海水注入は続行されたため、最悪の事態は避けられたものの、国家の命運を大きく揺さぶった一瞬でした。
折しも、日銀の金融政策を政府の支配下に置くべきとの議論も国会では盛んになっています。総理を頂く政府が日銀の独立性を奪い、デフレと円高を阻止するのが国益にかなうという議論。これも政治主導のなれの果ての議論と言えるでしょう。
「自分は責任を取りたくない。責任は『お上』に。」という日本人の発想が、この「総理主導」の議論を生んでいます。私が法案の作成者、提出者となった「原子力規制委員会法案」でも、原子炉の緊急措置については、技術的専門家ではなく総理が最終決断すべきとの声が強くありました。「国家の命運を最後に担うのは、総理をおいて他にない」、というのです。
原子炉の安全確保策も、金融政策も、高度に専門的技術や知識が必要であり、かつ国民の生活と安全に直結する重要な施策です。総理交代ごとに変わったり、また選挙目的で右往左往したりしていいものではありません。海外を見ても、原子力規制や中央銀行の独立性を厳格に確保しているのが、いわば先進国たる前提です。日本だけ、何故逆行する議論になるのでしょうか。
「国家の命運」を担っているのは総理だけではありません。国民も皆で背負うのべきものでしょう。「お上」が一極的に責任と支配を担うのではなく、国民が皆で、各々の分野の専門家、第一人者が責任感と使命感を持ち、各々の分野の責任を共有する。そういう国家へ、日本は今こそ脱皮しなければなりません。
原子力のみならず、国民生活全般の安心と安全のため、引き続き国会で全身全霊を尽くして頑張りたいと思います。皆さまのご指導ご支援を、何卒よろしくお願いいたします。
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