2001/12/18(火) NO.240号
パキスタンに到着、明日はアフガニスタンへ
昨晩10時頃、北京経由イスラマバードに到着。アフガンNGO東京会議に参加していたUNHCRカブール代表やアフガンNGOが出迎えてくれて感激。気温は摂氏14度と、以外に暖かった。
案の定、今日のペシャワール行きの道中で、まれにみる降雨。同行してくれたペシャワール駐留のアフガンNGOのメンバーから「あなた達が来てくれたことを歓迎する恵みの雨だ」との解説あり。ペシャワールのアフガン民族博物館に到着してみると、なんとアフガンNGO東京会議に参加していた現地NGO27のうち半分以上のNGOが集まってくれ、子供達から花束贈呈で出迎えられてびっくりした。
お茶を頂きながら説明を聞くと、テロ後新たに加わった25万人のアフガン難民のうち17万人がペシャワールにいるが、訪問予定であるその中心的難民キャンプのシャムシャトキャンプへ入る許可がまだ下りていない、とのこと。理由は、日本の国会議員が3人もいるため、警備上の配慮から現地だけで判断できず、イスラマバードの外務省に判断を仰いだものの、ラマダン明けのイード(日本で言えば正月三が日)で誰も連絡が取れない、とのこと。
日本大使館にも頼み、結果を待ちながら、20人余りの皆で車座になりアフガン料理の昼食。正直言って私は羊のにおいが苦手でびくびくしていたが、シシカバーブも、羊の肉が真ん中にしこたま入った焼きめしも、羊のヨーグルトもうまかった!なす料理は抜群。オクラ料理もうまかった。満点!下地代議士はお腹が二周りぐらい大きくなっていた。
しかしなんと言っても、アフガニスタンから出国して何年も様々な困難を耐え、今回新政権が出来たら一刻も早く祖国に帰って復興させ幸せになるんだ、との思いと期待が頂点に達しているアフガンNGOの面々と、じっくり話せたのが最大の収穫だった。明日我々が入る予定のマザリシャリフ地域を含め暫定統治体制の難しさを真剣に語ってくれたが、おそらくその背景には、筆舌では尽くしがたいこれまでの苦難の歴史があるはずだ。復興に関わるものは、その歴史の重みを的確に踏まえた支援を考えねばなるまい。そして彼らは、復興過程での彼らNGOの果たす役割と、日本のNGOや日本政府の手助けへの期待を熱く語ってくれた。
結局目的の難民キャンプへの入場許可が下りず、強行してNGOの皆さんに迷惑をかけてもと思い、当初予定はあきらめ、代わって79年のソ連のアフガニスタン侵攻直後に出来たカチャガリという最も古い難民キャンプに行く。もはやどこからも援助が入らず、既にスラム化していた。遠目には土のかたまりのように見える住居にアフガン人が驚くほど大勢住んでいる。もう20年余りここに住んでいるのだ。何という人生だ。この難民キャンプがなくなる日がいつ来るのだろうか?
夜7時前にホテルに戻る。沼田大使と暫し情報交換後、パキスタン料理を食べに出る。いよいよ明日はアフガニスタン入り。朝9時発の国連チャーター機でマザリシャリフへ飛ぶ。ジャパンプラットフォームの職員や他の日本のNGOも乗れるように、携帯する荷物は7キロ以内にすることにした。
案の定、今日のペシャワール行きの道中で、まれにみる降雨。同行してくれたペシャワール駐留のアフガンNGOのメンバーから「あなた達が来てくれたことを歓迎する恵みの雨だ」との解説あり。ペシャワールのアフガン民族博物館に到着してみると、なんとアフガンNGO東京会議に参加していた現地NGO27のうち半分以上のNGOが集まってくれ、子供達から花束贈呈で出迎えられてびっくりした。
お茶を頂きながら説明を聞くと、テロ後新たに加わった25万人のアフガン難民のうち17万人がペシャワールにいるが、訪問予定であるその中心的難民キャンプのシャムシャトキャンプへ入る許可がまだ下りていない、とのこと。理由は、日本の国会議員が3人もいるため、警備上の配慮から現地だけで判断できず、イスラマバードの外務省に判断を仰いだものの、ラマダン明けのイード(日本で言えば正月三が日)で誰も連絡が取れない、とのこと。
日本大使館にも頼み、結果を待ちながら、20人余りの皆で車座になりアフガン料理の昼食。正直言って私は羊のにおいが苦手でびくびくしていたが、シシカバーブも、羊の肉が真ん中にしこたま入った焼きめしも、羊のヨーグルトもうまかった!なす料理は抜群。オクラ料理もうまかった。満点!下地代議士はお腹が二周りぐらい大きくなっていた。
しかしなんと言っても、アフガニスタンから出国して何年も様々な困難を耐え、今回新政権が出来たら一刻も早く祖国に帰って復興させ幸せになるんだ、との思いと期待が頂点に達しているアフガンNGOの面々と、じっくり話せたのが最大の収穫だった。明日我々が入る予定のマザリシャリフ地域を含め暫定統治体制の難しさを真剣に語ってくれたが、おそらくその背景には、筆舌では尽くしがたいこれまでの苦難の歴史があるはずだ。復興に関わるものは、その歴史の重みを的確に踏まえた支援を考えねばなるまい。そして彼らは、復興過程での彼らNGOの果たす役割と、日本のNGOや日本政府の手助けへの期待を熱く語ってくれた。
結局目的の難民キャンプへの入場許可が下りず、強行してNGOの皆さんに迷惑をかけてもと思い、当初予定はあきらめ、代わって79年のソ連のアフガニスタン侵攻直後に出来たカチャガリという最も古い難民キャンプに行く。もはやどこからも援助が入らず、既にスラム化していた。遠目には土のかたまりのように見える住居にアフガン人が驚くほど大勢住んでいる。もう20年余りここに住んでいるのだ。何という人生だ。この難民キャンプがなくなる日がいつ来るのだろうか?
夜7時前にホテルに戻る。沼田大使と暫し情報交換後、パキスタン料理を食べに出る。いよいよ明日はアフガニスタン入り。朝9時発の国連チャーター機でマザリシャリフへ飛ぶ。ジャパンプラットフォームの職員や他の日本のNGOも乗れるように、携帯する荷物は7キロ以内にすることにした。
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