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やすひさの独り言 Yasuhisa's Soliloquy 今一番伝えたい考えや想いをお伝えいたします

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2012/04/17(火) NO.709号 

燃える国際交流人山本正氏、逝く

 一昨日の午前1時前、武見敬三前参議院議員から日本国際交流センターの山本正理
事長がご逝去された旨のメールをもらう。ひと月ほど前に、東京の病院に見舞った時
にはまだしっかりしておられ、先週、もう一回見舞いに行こうとご家族に連絡をし、
今週お邪魔する事になっていた矢先の急変だった。見舞った際、「これまで仕事で走
りすぎで来られたので、この際少し休んでは、ということでしょう」と申し上げる
と、やや恥ずかしそうなお顔をされながらも、力強い握手をして下さったが、それが
最後の面会となってしまった。

 山本さんは、日本の民間国際交流のパイオニアでおられた。下田会議、三極委員
会、日米議員交流、日豪議員交流、日英21世紀委員会、日韓フォーラム、日独
フォーラムなど、山本さんが一手に切り盛りされてこられた交流機会は枚挙にいとま
がない。一貫して、独立、中立、非営利、非政府だった。その功績が認められ、昨
年、旭日中綬賞を授賞された。

 私も、国会議員初当選直後から、様々な国際会議に誘われ、また海外からの議会ス
タッフ、国会議員、学者、シンクタンク運営者などが来日する度に、様々な形で交流
の機会を作って下さった。

 とりわけ、 中曽根・サッチャー両首相の合意で作られた日英2000年委員会
(現日英21世紀委員会)に関しては、2002年から私が椎名素夫先生から引き継いで
日本側座長に就任したが、これも山本さんの計らいだった。今年、前原民主党政調会
長と座長を交代するまで、合計10回の会合の開催日決定、アジェンダセッティン
グ、人選、会議の進行、とりまとめペーパー等、一回ごとに、ともに汗をかかせても
らってきた。会議の夜は、さんざん皆でお酒を飲んで話し込んだ後、会議のまとめの
ため、パソコンに向かう山本さんの後ろ姿が今でも目に焼き付いている。山本さんは
そうした知的活動に加え、会議ごとの運営資金集めにも奔走するとともに、ホーム
ベースの日本国際交流センターの運営にも、スタッフとともに全力を注いでこられ
た。

 どの会議に行っても、また交流の機会を得る諸外国の知的人材にお会いしても、山
本さんの世界的人脈の広さ、深さには敬服するしかなかった。上智大の学長ともなら
れたご長兄共々熱心なキリスト教徒で、常に愛深く、温かい人柄と、いたずらっぽい
お顔の笑顔に、心温まる思いを皆感じていた。一方で正義感と民間、非営利、中立、
非政府の筋を通す事に関しては真っ直ぐで、時折外務省と意見がぶつかる時などに
は、はっとするような気迫を感じさせた。また、「特定公益増進法人」の資格を維持
するための財務省の手続きの煩雑さに、怒り心頭に達していた事もあった。何につけ
ても燃える人だった。

 加藤紘一自民党政調会長(当時)をNY・マンハッタンのキッシンジャー邸に招待さ
れる段取りをし、私も同席したが、20人程度のディナーにおいて面接口頭試問さな
がらの迫力ある意見交換の機会提供されていた。そうした一方、シビル・ソサエ
ティー、とりわけNGOの育成には熱心で、ピースウィンズの大西代表と3人で痛飲し
ながら議論した事もあった。また、私の妻共々、既に何年か前に他界された最愛の奥
様ともども、ご自宅近くの行きつけのお寿司屋のカウンターで食事に招待される事も
あった。

山本さんの活躍の軌跡を挙げれば切りがない。しかし問題は、山本さんのような
民間によるレベルの極めて高い国際交流の担い手役の後継者が見当たらないという事
だ。公的な知的交流予算が減る一方で、民間交流への支援予算もがた減りだ。経済に
余裕もない中、交流資金集めも厳しさを増すばかり。山本さんは嘆いていた。何とか
山本さんに代わる人材を、山本さんの遺志を受け継ぐためにも、探さないといけな
い。