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東京新聞-2001年4月29日

家族のこと話そう「就職めぐり、おやじと最後のケンカ」

自民党の若手でつくる「日本の明日を創る会」の有力メンバーの一人で、メンバーなどから党総裁候補に推す声も挙がる、金融・財政に明るい"国際派政策新人類"塩崎恭久氏。父親は、大蔵省主税局長(肩書は当時)を最後に政界入りし、「税制の塩崎」として知られた政策通の塩崎潤・元総務庁長官。エリート二世政治家が育った家庭とはー。

家族は女房と息子二人。両親も健在で、おやじは東京で税理士をやってます。
幼いころのおやじの思い出はベロベロに酔っぱらって帰る姿。運転手さんに担がれて、玄関にドーンと投げられて、家族みんなで引っ張って着替えさせると…。
日曜日はゴルフに行ってることが多かったですが、翻訳もしてた。ゴルフか、家で勉強してるか、だったですね。

一家で山歩き

 正月も、元日はお年始回り。翌日は大蔵省の同僚や後輩がたくさん来て、昼ぐらいからずーっと飲んで、というパターンでしたから、ちょっとトランプやってもらうぐらいしか遊んでもらったことはない。ただ、5月5日のこどもの日だけは、家族みんなで山歩きに行きました。

 僕は幼稚園から英語習いに行ってます。「ドイツ語だったから英語で苦労した。お前は英語をちゃんとやれ。おれもやる」ということで。小学校低学年のころ、両親、姉2人と、家族5人そろって、近くの外国人のところへ英語を習いに行ったこともありました。政治家になってからもヘッドホンカセットで英語をやってましたね。僕よりはるかにねばり強く、努力家で、あんまり気が散らないという人ですね。

 殴られたことはありませんが、いつも「勉強しろ」と言われ、怖かったです。
 おふくろは教育ママゴンでしたよ。僕が勉強しないもんだから、家庭教師が何人も辞めていきました。

 高校に在学中、アメリカに1年行ってたんだけど、おやじは、行く前は主税局長、帰国したら落選(参院選全国区)してた。それで本格的に(衆院選出馬を)やることに決め、僕が帰国した8月に居を郷里の松山市に移してしまうんです。ですから、高校2年の時から両親はずっと東京の家にいなかった。

 日銀には、静かに自分のやりたいことがやれて、安定していて給料がいいところがいい、ということで入りました。この時、おやじと最後のケンカをしました。

 「何であんなぬるま湯に行くんだ」って言ったんで口論になって、"何をっ、この野郎!!"ってんで、ぶん殴りそうになりました。体力的に僕が勝っちゃうからやりませんでしたが。

今でも父に相談

 政治家に、と決意したのは日銀に行ってからです。高校の時から政治には関心がありましたし、コツコツやるタイプじゃないので合わなかった。おやじに相談すると、「(日銀の)理事になろうという努力もいいだろうし、政治家になるのも自分の人生だ。お前が決めればいい。辞めるんだったら、早めに議員になるタイミングの方がいいなぁ」と。押しつけはありませんでした。

 おやじには時々相談しています。人手不足の時は、いまだに来てもらったり…(笑い)。人に聞くと(僕の言動に)ヒヤヒヤドキドキしてるらしいですよ。

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