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日本経済新聞夕刊-2008年4月15日掲載記事

こころの玉手箱A「関門海峡〜駆け出し時代の悩み癒やす」

 日銀に入行して二年目の1976年5月に下関支店に赴任した。小高い山の上の家族寮からは関門海峡が一望でき、抜群の立地だった。世相は安宅産業や興人が経営危機や倒産に追い込まれるなど、経済状況は悪かった。それまでは遠い話だった倒産がいかに大変かを身をもって知らされた。企業が倒産した途端、債権者が押し寄せ、債務者を責め立てる。そこには、おカネへの欲望むき出しの人間の姿が垣間見えた。

 山口県には、永大産業の関連会社の工場があって連鎖倒産の防止に走り回った。倒産による地域経済の落ち込みは活力を失わせかねないので必死だった。ある時、自分が担当していた造船会社について支店長から「大丈夫か」とただされた。私は自信満々に「大丈夫です」と答えたが、その造船所が十日後に会社更生法を申請した。

 企業担当の私にその企業が「経営はもう駄目です」と言ってくることはまずない。倒産の恐れは往々にして企業のメーンバンクが資金繰りなどから判断する場合が多い。後で分かったことだが、支店長はメーンバンクから経営状況を聞いたうえで私を試したのだった。

 支店の仕事で苦労した中には、そろばんでの計算があった。支店のすべての取引の伝票は、毎日、私のところにまとめられる。その計算が終わらないと支店の職員全員が帰れないルールになっていた。「君の先輩たちはまじめでよく頑張ったのにね」。計算が遅い私に向かってよくこんな声が飛んだ。

 見るに見かねた庶務の女性職員が代わりにあっという間に計算してくれたこともあった。ほかの支店との間でおカネを運んだりもした。現金輸送車の警官の隣に乗り、関門大橋を行き来したが、あまり気持ちのいいものではなかった。

 仕事で嫌なことがあっても家族寮から海峡を眺めると気持ちが落ち着いた。漁船やタンカーなど様々な船の往来がみえる。歴史の中でたくさんの物資と文化がこの海峡を通って行き来した。
「ボー」ち鳴る船の汽笛を毎日聞くうちに当時一歳の息子が「ボーはどこ?」と聞くようになった。最初に覚えた言葉だった。